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哲学
ふと本屋に立ち寄った際、“父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書”という圧倒的に長いタイトルの本が目に入り、勢いで購入しました。
私にとっての哲学
一風変わったタイトルに惹かれ、中学生の我が息子を思いつつ、中々手にとらない本の種類であったものの、これも縁かなと思って購入しました。哲学で思い出すことは、2つあります。1つは“イマヌエル・カント”です。確か、高校入学が決まり、入学までの期間に読まなければいけない本(学校指定図書)が(あまり定かではありませんが)“カント”だったような記憶があります。中学3年生の精神的にかなり未熟だった私にとってほとんど理解できなかったと思います。でも、イマヌエル・カントという音の響きだけが記憶にあります。
もう1つは、高校1年生の社会の授業に“倫理”という教科があって、そこで哲学関係の偉人が出てきていた記憶もあります。今までの私にとって哲学と聞いたらそんなレベルでした。
哲学は「考える技術」
本のイントロ部分 に哲学は考える技術であると書かれています。そう言われると、哲学がグッと身近に感じました。答えが1つに決まらないような課題に対し、取り組む力を養う手法として有効であると思いました。例えば、“退職代行サービス”を例に取って考えてみます。自分と同年代の管理職の方々に聞くと、ニュアンスとしては「一言(辞めます)と言えば直接言ってくれればいいだけなのに」と言われる方がほとんどです。一方、利用者からすると、二度と会いたくないし顔も見たくない、コスパが悪いというわけなのですよね。(多分)サービサーとしては、お金を払ってくれる顧客ニーズにとらえて事業展開していることだろうと類推します。このサービスの対象を“退職”ではなく、“個人の揉め事”として捉えると、弁護士に依頼することは、多くの人が納得するのではないでしょうか?つまり、課題の大小は人それぞれ捉え方が異なり、対象者にとって課題が大きいものは、代理人へ依頼することが得策であろうということでもあるのかなと。そう考える一方で、礼儀、作法としては、最低限の振る舞いをすることが望ましいと考えることもできる。
あの手この手で思考を巡らし、本質を導き出す技術そのものが哲学であれば、複雑化していく現代社会では大変重要な技術であろうと思います。
情報と本質
インターネット、S N S、携帯電話が当たり前の情報化社会になって、ほとんどの人が情報にアクセス可能な状態になっていると思います。アクセスは出来ても、正しく理解できるとは限らない。先日、友人がご飯処をインターネットで探して、定量化された数値を見てお店を提案してきました。接待ではなく単なる食事ですので、そこまで気にする必要はなかったのですが、そういう行動を見ると、情報分析に対する姿勢が垣間見えたりします。情報の質よりも量が凌駕する時代において、質の判断がされていないデータを持って判断している事の危険性をある程度認識すべきだなと思います。食事処などでは、バンドワゴン効果によって行列が長くなっている店をたまに見かけます。近所の人に聞くと、「料理長が変わってから味が落ちた」「前はガラガラだった」「美味しくないから行かない」という話がチラホラ聞こえたりします。人それぞれの価値観ですので正解はありませんが、自分自身で確認できる力を身につけることが重要だと思います。情報を整理して本質を見抜く力を鍛えるのに、哲学的な思考トレーニングは有用かもしれないと考えています。
次回予告
哲学からの人生ゲームについて書きたいと思います。